八王子城の構造
曲輪(くるわ)をめぐる
八王子城は深沢山(城山)山頂に本丸を置き、周辺に延びる尾根や細かく入り組んだ谷、そして麓の平地など、自然の地形を利用した城郭となっており、特に山頂や尾根は平らに削りとって大小の曲輪(くるわ)を何段も縦に並べていました。
曲輪(くるわ)とは、堀や土塁で囲んでつくられた平地で、戦国時代のものは土塁で囲まれたものや、あるいは柵列で囲まれたものがあります。
それぞれの曲輪を見ていきましょう。
「御主殿曲輪」は八王子城山の南麓に広がる平地で、八王子城で最大の曲輪です。
山側を削り(切土)、谷側(城山川)に盛り土(盛土)して作られた人工的な台地です。
1992年~1993年(平成4・5年)に大規模な発掘調査が行われ、北条氏照公が執務や居住していた御主殿と、接待のための館の会所などがが出現しました。
御主殿曲輪では背面の谷筋に数段にわたって石垣が、積み上げられていますが、石垣は最下段の石材を少し前に出して、そこから上段部を積み上げられています。こうした工法を「あご止め技法」と呼び、関東の戦国時代の石垣工法として注目されています。八王子城では山上部の石垣にもこうしたあご止め技法が認められます。
「山下曲輪」は、八王子城の居館地域を守る初めの曲輪で、八王子城合戦の際には 最初の激戦が行われたところといわれています。
現在 山麓の観光用看板や公衆トイレの設置されている場所がかつての山下曲輪といわれ、豊臣氏へ降伏した旧臣・大道寺政繁らが突撃し、この重要な関門を陥落させ、攻城軍は山頂の曲輪群や御主殿に怒涛の如く雪崩込んだといわれています。
寝返って攻城軍先鋒として戦った大道寺政繁は,最も武功があったにも係わらず,秀吉に許されることなく戦後に川越城で切腹を命ぜられています。
山下曲輪の上段は、「アシダ曲輪」で、その間は竪堀(堀切)があり、橋で渡れるようになっています。ちなみに明治維新後に、ある寺院がアシダ曲輪を買いとり、寺を建てた際にこの橋を作ったとか。このためここは私有地となっており、ガイドなしでの立ち入りはできません。
アシダ曲輪は、「慶安古図」に「アシダ蔵」と書かれており、2,3段の曲輪群からなり、ここは有力な家臣の屋敷跡か大きな倉庫があったと考えられています。
小田原仕置の時は、近藤出羽守が守っていたといわれています。
ちなみにこの上には夜になるとたくさんの武士やその奥方と思われる女性が次々に現れるという有名な心霊スポットである観音堂があります。
なお、アシダ曲輪付近には何体もの石仏が置かれています。古くは108体の石仏が配置されていたようですが、盗難で、現在は16体のみ確認できるとのこと。
「アシダ曲輪」は、現在は「アンダ曲輪」という呼称が定説になっているようです。「アンダ」とは、当時の武将の間で信仰されていた阿弥陀如来の「あみだ」が訛ったものと考えられ、曲輪のどこかに阿弥陀堂が建っていたのかもとの説が有力だそうです。
「近藤曲輪」は、近藤綱秀が守備する、八王子城の入口にあたります。
「近藤曲輪」では、両軍鉄砲の打ち合いとなったようです。八王子城側は、霧もあり攻め手の豊臣勢がどのあたりにいるのか良くわからなかったため、 石弓(高所から石を落とす)の戦法も使い、豊臣勢先陣の大道寺政繁隊・数百人を一旦は撃退しますが、大道寺政繁は「近藤曲輪」を猛攻して近藤綱秀を討ち取ります。
「金子曲輪」は、管理棟の横にある坂を上って行き「八王子城跡自然公園」の案内板から登っていくと登り口から10分弱で最初に到着する遺構です。
尾根にちいさな曲輪をひな壇状に配置し防衛したもので、馬蹄段の上にあるのが通称「金子丸」と呼ばれる金子曲輪。
ひな檀状にした曲輪の上部の曲輪や柵門跡下には、北側斜面に一部石垣が見られます。
ここは、八王子城合戦の時は金子三郎左衛門家重が守っていたと言われています。ただし、詳細はわかっていません。金子曲輪の存在は「慶安の古図」(1548)には描かれていないのです。
金子曲輪の尾根を西に進むと、大手山道、搦め手道、山王台曲輪への道、本丸への道が交わる広場に出る。ここは柵門台呼ばれ、山頂の要害地区に向かう要衝で、石垣や柵門が設けられていたといいます。
「馬蹄段(ばていだん)」は、本丸跡をめざして登山道を登り始めてやがて左手に現れる階段状の削平からなる小曲輪の連なりです。
これは攻め上がってくる敵軍を迎え撃つためにしつらえられた防御の仕組みです。
上下に八段続きます。「慶安の古図」にもこの存在が明確に描かれています。
「太鼓曲輪」へは大手門跡から御主殿跡へ向かう古道(旧道)を分断する堀切脇を登って行きます。
「太鼓曲輪」には、「切通し」が5か所ほど認められており、そのうち一か所は、石垣もはっきりしているようです。430余年の歳月を経ても土砂に埋もれることもなく、当時の削りとられたままの姿で残っていることには驚きを隠せません。
切通しの存在から太鼓曲輪は防衛施設であるととともに交通路としても使われていたのではないかと考えられています。この切通しを超すと御霊谷戸の明神社にでることができるが、この辺は北条氏の軍馬養成所があったと考えられており、こことの連絡通路として切通しがあったと考えられています。
なお、八王子戦争の際、この太鼓曲輪は平山綱景が守備していましたが、見張りが大きな役割であったため少数で、上杉景勝の大軍勢には歯が立たなかったようです。
「中の曲輪」には、地名「八王子」の語源となった八王子神社が建てられています。山頂に延喜13年(913年)に氏照が顕現した牛頭天王とその8王子(スサノオの八柱の御子神)を祀って創建。八王子城築城後はその守護神として尊崇されました。鳥居は山頂へと至る登山道兼参道沿いに2基あります。
見えているのは覆い社と呼ばれる雨除けで、本殿はこの中にあります。左手奥に見える小さな祠は、八王子城の戦いの際の城代だった横地監物を祀る横地社です。
なお、横神社の隣には天狗の石像が建っており、氏照の高尾山の天狗信仰のようすもうかがい知れます。
「小宮曲輪」は、狩野一庵が守っていたといわれている曲輪です。
三の丸とも一庵曲輪とも呼ばれていました。三の丸には御嶽神社が祀られ、北方には「かき下し」の断崖絶壁となる滝の沢の深い谷となり、自然を生かした要害となっています。立派な石垣の土台の上に一対の小さな狛犬がいます。
天正18(1590)年6月23日に上杉景勝の軍勢による奇襲にあって陥落したといわれています。
小宮曲輪の下からは、関東平野を一望でき、晴れていれば筑波山・西武ドーム・東京スカイツリー・八王子市内・相模原市橋本の高層ビル群などの展望が望めます。
「松木曲輪」は、中山勘解由家範が守っていたといわれている曲輪です。中の丸とも二の丸とも呼ばれていました。
近くには「坎井」と呼ばれる井戸があります。当時は掘ったままだっただろうが、現在は手押しポンプが付けられていて、一年を通してほぼ水が枯れることはないという。またこの井戸の真下あたりに石垣跡が残るという。
松木曲輪は、「慶安の古図」には拾間x七間の広さがあったと記載されています。
また、大きくその下をぐるりと取り巻いている「腰曲輪」が描かれており、これは現在も松木曲輪のベンチあたりから、すぐ下に見られます。
天正18(1590)年6月23日に中山勘解由家範は、松木曲輪で北国勢の前田利家隊と奮戦しましたが、多勢に無勢で防ぎきれなかったといわれています。
その勇猛ぶりを惜しみ、前田利家、上杉景勝それぞれから降伏勧告がなされましたが、中山勘解由はこれを受け入れず、妻とともに奮戦し、最後はその妻と幼子を斬って討死しました。
家範の勇猛ぶりは徳川家康の耳にも入り、その遺児が取り立てられ、水戸徳川家の家老までになりました。その子孫が、山麓に百回忌に城主 北条氏照公の供養塔を建てたのでした。
二の丸展望台に立つと、落城由来の記念碑が二基立っており、あずまやもあり、正面に高尾山、また、多摩御陵から八王子市街を見渡せるなど、当時の武将たちが見たであろう景色と重なり合って、往時を偲ぶことができるでしょう。
「山頂曲輪」は、「本丸」であり、要害地区(山頂部)を構成する曲輪群の中で中心に位置する曲輪です。文字どおり、八王子城の戦いの中心で、最も重要な場所といえるでしょう。
しかし、山頂曲輪は、山の最高部 (標高460m) にあたり、削平されているもののそれほど規模が大きくないので(江戸時代の初期(1648年)に描かれた「慶安の古図」には11間x7間の広さがあったと記載されている)、物見櫓程度の建屋が建っていて、指揮発令所としての役割程度しか持たなかったと考えられています。今は小さな祠が建つのみです。
また、山頂とはいっても木に囲まれて視界はあまりよくありません。
城代・横地監物景信が守備していましたが、攻め込まれ、大石照基は、横地監物景信を逃がす時間を作る為、討って出て討死します。
横地監物は山伝いにかろうじて逃亡。豊臣勢は残された八王子城の守備兵をことごとく討ち果たし、完全に攻略したのでした。
「井戸曲輪」は、城内の給水源であり、天正18年の八王子戦争時には、攻撃軍は真っ先にこの水手の占拠を企て、命の源を断ち切る戦法に」打って出ました。
この一帯は「いしびつ」「たなかいど」とも呼ばれているようですが、「いしびつ」とは「石火矢」の転語と思われ、硝煙倉庫があり、鉄砲使用の爆発物を貯蔵していたのではないかと考えられています。
「馬冷やし詰曲輪」は、「井戸曲輪」から、あるいは「小宮曲輪(一庵曲輪)」から「かき下し」を経由、たどりつけるところにあるが、ここは切り割られた人工の施設であることがわかり、滝の沢方面からの防備を兼ねて、小さな貯水池があったようです。このため本丸をめぐる南北馬場の馬蹄を冷やしたところと考えられます。
馬冷やしの切り割りを登ると空濠が二か所あり、そこをしばらく歩くと本城とは別区画をなす一山を利用した「郭」の遺構を見ることができます。土地の人は「御天守」と呼び、あるいは「詰曲輪」「詰の城」とも呼んでいます。
「西側曲輪(詰の城)」は、八王子城の作り込まれた城域としての西側の端に位置します。何と言っても八王子城の見どころは、本丸よりもさらに西方に構えられた地元の人が「御天守」とも呼ぶ西側曲輪(詰の城)であると言っても差支えないでしょう。
通説では詰の城の役割は、本丸が陥落したときに最後の拠点にするために構築された小曲輪であるとするものです。西方最前線に構えられた戦闘指揮所ということでしょうか。
ここを頂点にして北側には「詰城北尾根」、南側には「詰城南尾根」が延び、尾根沿いに設けられた小さな曲輪が配され、尾根沿いや曲輪周囲には石垣が設けられています。
また、詰城から北西に延びる尾根の西斜面には、防御壁の要と考えられる石垣が続いています。
その他、尾根沿いには、深い堀切が設けられています。
この西側すぐ下には尾根を鋭くえぐり取ったようなこの城最大の掘切り、「大堀切」があります。
この大天主こそか゛西方最前線に構えられた戦闘指揮所として評価て゛きよう。こうした本丸よりも西側て゛、石垣を用いた縄張は天正15年以降に増築された部分とみられる。その石垣は圧巻て゛ある。訪れた際にはせ゛ひとも足を伸は゛して、大天主まて゛見学されることをお薦めしたい。
八王子城発掘の状況
看板資料によれば、「八王子城跡の調査は、昭和52(1977)年以来継続的に行われ、現在に至っています。発掘調査などの結果からは、大規模な普請(造成工事)が行われていること、石垣など当時としては最新の技術で造られていることなどがわかってきました。また、御主殿跡は15m以上も盛土して館を構えていることが確認されました。内部に建物の跡や石敷きの通路なども発見されています。
現在八王子市教育委員会では、これらの調査結果をもとに、史跡の保存と活用を目的に、当時の八王子城の再現を目指して整備を行っています。今後とも広く市民に公開し、八王子の大切な歴史遺産として、保存と活用を図っていく考えです。」
なお、八王子市文化財課が管理する現在の「八王子城跡」としての範囲には太鼓曲輪尾根の南斜面などの区域が含まれておらず、16世紀当時より狭い範囲に限定されている。史跡に含まれていない区域は霊園や私有地が入り組んでいるため、住宅地の中にも多くの遺構を確認することができる。