八王子城の遺構や構造物八王子城の遺構や構造物

八王子城の構造



八王子城の遺構、構造物など

 次に、城の遺構、構造物について見てみましょう。
 まず、輪木製とはいえ長さ32メートル、幅4メートルの「曳橋(ひきばし)」。八王子城の御主殿の通路形態を再現するため、曳橋と呼ばれる木製の橋が架けられました。「曳橋」は土台が残っていただけなので、現在の技術で戦国時代の雰囲気を考慮して作られたそうです。
 看板資料には以下の説明がされています。
 「城山川の両岸の斜面に、橋を架けるための橋台石垣が発見され、御主殿へわたる橋の存在が確認されました。当時はこの橋台に簡単な木橋を架け、この橋(曳橋)をこわすことによって敵の侵入を防いだものと考えられます。橋台は検出した石垣の崩れた部分を新たに補い、想定復原したものです。また、橋そのものは現代の工法で建造したものですが、史跡の景観に合うよう木造にしました。」とのこと。つまりは城内に引っ張りこめば、忍者も通れないというしろものです。橋げたは車輪付きで、車輪が並ぶところから「そろばん橋」とも呼ばれたとか。

 橋のたもとの「石垣」もかなりの規模です。
 優に5-6メートルはある。当時の関東の城の石垣は大人の背たけから2.5メートルほどだったので、比較してもその巨大さがわかります。復元された石垣も戦国時代と同じ野面積(のづら)という工法によって積み上げられたものです。この技法では、様々な形に切り出された石を積み上げていきます。これらの石は、城山から採れる硬質砂岩を使用しています。
 石垣は、外乱に強く、また水はけにも優れていました。これは、野面積みの石垣が強固な「盾」であったことを示しています。また、石垣は400年間土の中で崩れずに残っており、目の前に見えるのはほぼ築城時の姿とのことです。

 看板資料には以下の説明がされています。
 「この石垣は、土の中に400年間崩れずによく残っていたので、検出したそのままの状態にしてあります。戦国時代の石積様式を示す全国でも貴重なものです。その特徴は、この城山山中から産出する砂岩を利用して、ひとつ一つ丁寧に積み重ね、その隙間には小石を詰めて全体として強固な石垣としていることです。また、石垣の勾配が急なこと、石垣の裏側にたくさんの砕いた石を入れていることも特徴です。」

 八王子城虎口 次に「虎口」。落城四百年事業(1990年)に向けて整備されました。
 看板資料によれば、「城や曲輪の出入口は虎口と呼ばれ、防御と攻撃の拠点となるようにさまざまな工夫がこらしてあります。御主殿の虎口は、木橋をわたった位置から御主殿内部まで高低差約9mを「コ」の字形に折れ曲がった階段通路としていることが特徴です。階段は全体で25段、踏面が平均1m、蹴上が36cmで、約5mの幅をもっています。途中の2ヶ所の踊り場とともに、全面に石が敷かれているのは八王子城独特のものです。」なお、この構造そのものは、織田信長の安土城がモデルになっているといわれています。八王子城の構想そのものの壮大さも窺える話です。
 
 次に「御主殿跡」。江戸時代に描かれた「慶安の古図」によると、「北条陸奥守殿御主殿」と書かれており、この御主殿には氏照が居住していたと考えられている。
 八王子城跡を記載するときに使用される「御主殿」という言葉はすべてこれに由来します。
 落城後は、江戸幕府の直轄領となったり、昭和になって国有林であった経緯から、ほとんどが手を付けられること無く、中世時代そのままの状態で残っていたといいます。
 なお、御主殿地区の本格的な発掘調査は、1992年、93年(平成4年、5年)にわたり行われ、大型建物遺構(2棟)が姿を見せることになります。
 この礎石には落城時の猛烈な火災によって残されたと思われる柱の痕があり、柱の大きさとともに柱の配置から建物内部の間取りも推定することができました。
 看板資料によれば、「主殿は中心となる建物で、政治向きの行事が行われたと考えられます。広さは15間半×10間(29.4m×19.8m)で、折中門とよばれる玄関から入ります。大勢の人が集まる「広間」や、城主が座る「上段」などがあります。建物は平屋建てで、屋根は瓦ではなく、板葺きか桧皮葺きと思われます。」
 発掘調査でも中国の磁器や茶器、武器が見つかりました。
 なお、御主殿地区から発見された約70,000点の遺物は大半が破片で、完形な状態で出土するものは見られず、また表面は熱によって変化した遺物も多くみられ、戦いの影響を受けていることがわかります。
 また、茶具で使用された天目碗や茶臼、建水や水差、風炉、花器、香道具の香炉や雲母など氏照が御主殿で使用していた文化活動の道具がみられ、大量の食器とともにここが政治の場であったことが想像できます。
 また、鎧の小札や刀、鉄鏃、鉄砲弾やその鋳型、鍛冶を行った際に使用された羽口や坩堝、鉄砲弾の材料となったと思われる細かく割られた鐘など戦いがこの場所であったことを想像できる品物も出土しています。
 なかでも興味深いのは、戦国時代の城で、唯一ここでしか出土していないものとして、ベネチア産のレースガラス器があることです。このガラス器がベネチアからどのようにもたらされたかは不明ですが、氏照の外交能力や趣味の高さなどをうかがえるものかもしれません。
八王子城庭園跡
 次に「庭園跡」。
 看板資料によれば「会所と主殿の建物に囲まれた範囲に、大小の礫を配した庭と考えられる遺構が見つかりました。北側に未発掘部分があるので、全体の規模や構造に不明な点はありますが、発掘調査で検出された姿に再現してあります。会所から枯山水の庭を眺めながら、宴が開かれていたと思われます。」
 戦国の当時の関東平野にはなかったような規模と完成度の高い庭園だと考えられています。

 また、おもしろいのは「いろり」跡。八王子市による2020年の発掘調査で、氏照の館があった「御主殿」の建物跡でいろりのような痕跡が確認されたと発表したのです。
 過去の調査で何らかの建物があることは分かっていたが、建物内部に石で囲まれた部分の土が赤く焼けている「いろり」の跡が見つかった。近くには炭の破片も残っていた。「来客をもてなす前に汚れを落とすための湯屋(戦国時代版サウナ)として使われたか、会所で接待をするときに料理を作った台所だった可能性がある」と考えられているそうです。
 礎石の一部には柱が焼けた跡のほか、建物内部からは火縄銃の弾や銅銭「永楽通宝(えいらくつうほう)」も見つかっており、落城時の混乱ぶりがうかがえるという。
  
 八王子城の石垣それにしても300年以上を経ても土石の侵食にもうずもれることなく現在にその姿を現したままの遺構がいくつかあります。そのひとつが、山頂(本丸跡)をめざして登山道を登り始めてじきに左手に現れる「馬蹄段」です。
 また、山頂地区の「松木曲輪」、「小宮曲輪」、さらには「山頂の曲輪」などもむき出しのまま現在でもその姿を見届けることのできる遺構です。
 これら城郭の中枢部を見ようとすると、新道を利用するのがいいでしょう。
 新道は、8合目で旧道と合流し、三の丸(小宮曲輪)に出て、二の丸(松本曲輪)、本丸のある八王子城のの中核に結びます。八王子権現社に向かって中央が本丸、左が二の丸(松本曲輪、中の丸)、右が三の丸(小宮曲輪、一庵曲輪)です。



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八王子の名城「八王子城」「滝山城」は令和4年2月11日、登城記念として「御城印」の販売を開始した。御城印の販売は、桑都日本遺産センター八王子博物館のみの取扱となっている。一人各1枚まで購入することができる。購入方法は、日本100名城スタンプ(八王子城)、続日本100名城スタンプ(滝山城)を押印したものなど、現地を訪れたことがわかるものを持参し、指定の販売場所で購入することができる。現地を訪れたことがわかるものが無い場合は、販売場所でのクイズに答えることで購入することができる。