SAMPLE SHOP

学ぶ(甲府の歴史、それは信玄公の足跡を追いかけること)

 武田信虎は永正16年(1519)、躑躅が崎の地に館を築いて新たな本拠としました。その翌年、緊急時に避難のために立てこもる詰城として、背後の要害山に城を築いています。

 甲府は、武田氏のふるさとです。武田氏に関わる様々な史跡も多くあります。
 そんな甲府を訪れる大人の旅のために、ガイドブックには載っていないようなちょっとだけ詳しい話を加えて、甲府、武田氏の歴史を紹介します。


武田氏の館・城を訪ね歩き

湯村山城

 駒井高白斎の「高白斎日記」によれば、武田信虎が永正十六年(1519年)に躑躅ケ崎館を築き、居館を川田館から躑躅ヶ崎館へと移し、翌年に要害山城を築いたのに続いて大永三年(1523年)に古府中防衛の一翼を担う城として湯村山城を築いたとされています。
 一説によると、信虎築城前に逸見氏が湯村山に湯之山城を築いたとも、また武田信守・信昌の2代の内に築いたとも言われています。

 緑ヶ丘スポーツ公園からの遊歩道はアスファルトで固められていて、登山道というより「遊歩道」感覚で軽くのぼることができます。途中、湯村山中に残る平安時代前後の古墳を横目に見ながら登ることになります。

 以下に山梨県教育員会の解説文を掲載します。

 「武田信虎が府中警固の一翼として、相川扇状地の先端にある甲府市湯村山山頂に築いた山城。『高白斎記』大永三年四月の条には「二十四日湯ノ島ノ山城御普請初」とあり、川田より躑躅ヶ崎に館を移した信虎が、詰城の要害城に続いてこの城の築城を開始したことが知られる。

遺構が残存しているのは標高446mの山頂周辺で、土塁等で区画された三つの郭の他、南と西の一段低いところに腰郭が設けられている。全体の規模は東西約65m、南北約130mを計る。中心となる郭は2つあり、巨石の多い山頂を巧みに整形して、土塁で画した長方形状の平坦地をつくり出している。その他3つ目の郭は巨石が密集しており、一部に整形の痕が見受けられるものの、一標的な郭の機能を有していたか疑間の余地が残る。中心となる2つの郭と3つ目の郭の間は二重の堀切となっているが、1つ目の郭北側虎口の防備と密接に結びついて、他に類例をみない複雑な様相を呈している。

1つ目の郭は、北側虎口の形態や井戸の存在、南西部に設けられた櫓台等から、この城の中核部分と考えられる。2つ目の郭や南側帯郭とは、土塁の一部を分断した出入口で連絡しており、内部は南北2つのテラスに分かれるが、巨石を取り除いて、比較的に広い整然とした平坦地を造出している。一方、2つ目の郭は巨石の処理が不十分で、郭の東縁に沿って巨石が残り、やや雑然としている。この郭には、湯村山の南東斜画を通る登り道が直接連絡しており、連絡部と1つ目の郭との出入口を結んで等身大の巨石が直線的に並んでいる。

帯郭は、南側が幅15~ 20m、東側が幅約10mを計り、共に上塁や石列で2つのブロックに区画されている。

城の南には、府中と信州を結ぶ往還が走っており、湯川とこの道が交差する付近には、番所の存在を推測させる「関屋」の地名も残る。こうしたことから、湯村山城は単なる峰火台ではなく、府中入口の防備とともに、信州方面への監視的機能・情報収集機能を担っていたものと考えられる。」

 展望台からは正面に富士山を見ることができます。富士山の下には境川の家並みが広がり、アンテナ群の建つ坊ヶ峰を見ることもできます。湯村山城は南西方向を監視する役割と共に狼煙台の役目も担っていたようですが、この景色を見ると納得的です。

 なお、スポーツ公園近くには武田氏中興の祖といわれる武田信武が開創した法泉寺が建ちます。甲府五山の一つで、武田勝頼の歯髪の一部を境内に埋葬したと伝えられています。


詳細情報
名称 湯村山城跡
住所 〒400-0073 山梨県甲府市湯村3丁目478−153
アクセス JR中央本線・甲府駅から徒歩50分
JR中央本線・甲府駅から山梨交通バス「饅頭森入口行き」に乗り「湯村」バス停下車、徒歩10分


<< 前のページに戻る

↑ PAGE TOP