まずは武田信虎ありき
まずは、武田信虎についてその生涯についてみてみよう。
武田信虎は武田17代当主武田信縄の嫡男として明応3年(1494)、又は明応7年(1498)に出生し、永正4年(1507)に信縄が死去した事により18代武田家当主を継ぎ、甲斐守護職に就任しました。
しかし、実力者で叔父である油川信恵が異を唱え、有力一族や国人領主と組んで反旗を翻しましたが、永正5年(1508)に坊峰合戦で見事勝利し不穏分子を一掃しています。
さらに、武田家に与しない、小山田氏や、大井氏、穴山氏などを従えるようになり、甲斐統一を成しています。
永正16年(1519)には武田家の本拠があった石和から甲府に進出し、居城である躑躅ヶ崎館(武田氏館)を築城、城下町の整備に伴い、後に菩提寺となる大川寺(大泉寺)も城下町に移しています。
あわせて要害城や湯村山城を築きます。
諏訪大社下社の神官である金刺氏を保護した事や伴野貞慶の要請により度々諏訪郡や佐久郡など信濃国に出征を繰り返しますが、多くが失敗し大きな損害を被っています。
関東の上杉家とは同盟関係を築く一方で、小田原北条氏や今川氏とも関係が悪く、国境付近では戦乱が絶えませんでした。
そのような中、天文4年(1535)に諏訪頼満、天文6年(1537)には今川家との和睦が成立しています。特に今川家とは血縁関係を強め、信虎は長女である定恵院を今川家の当主となった今川義元の正室とし、嫡男の信虎(後の武田信玄)は義元の斡旋により転法輪三条公頼の娘(三条夫人 信玄の生母)を正室として迎えています。
天文8年(1539)には北条氏綱とも和睦した為、信濃侵攻を強化し、信濃国の一部を支配下に入れました。
しかし、天文10年(1541)6月14日、信虎が駿河の今川義元のもとに嫁いだ娘の訪問を済ませ甲斐に帰る際に、今川氏と通じた嫡子晴信(信玄)と一部の家臣は、軍をうごかして富士川筋の交通を遮断し、信虎の帰路をさえぎり国境を封鎖しされ、長女の嫁ぎ先である駿河の今川義元のもとに追放した。信虎48歳、晴信21歳であった。
この追放劇は信虎が対立していた晴信を廃嫡し家督をその弟信繁に継がせようとしたため晴信が主導したものとも言われるし、あるいは粗暴と連年の戦争を嫌った家臣による主君押込とも言われる。
信虎は、国内を固めるために戦乱に明け暮れ、反するものには徹底的な弾圧政策をとった。
内藤昌豊の父工藤虎豊も信虎に誅され、昌豊は兄とともに甲斐を出奔している。家臣たちはそんな状況に嫌気がさしていたのかもしれない。
信虎を駿河へ追放した三日後の6月17日、晴信は岩窪の離れ屋敷から躑躅ヶ崎館に移り住み、国内に信虎追放の触れを出した。そして28日、晴信は武田家19代目の家督を相続、重臣から農兵に至るまで館に招き、祝宴を開いた。
永禄3年(1560)5月19日、信虎67歳のとき、娘婿である今川義元は、尾張の桶狭間で織田信長に敗れ、戦死する。
義元の死後、今川家を相続した氏真は、外祖父である信虎を冷遇した。同6年頃信虎は駿河を追われるように京都へ旅立つ。
途中、掛川の円福寺で信玄宛てに、今川家の内情をしたため、駿河・遠江の攻略を勧めたといわれる。京都での信虎は将軍足利義輝の手厚い保護を受けた。ところが永禄8年(1565)5月19日、義輝は松永久秀らに殺害される。このとき信虎は信濃へ入っていた。
晩年、信虎は剃髪し、一介の老僧となった。信虎は諸国を周っていたが、足は自然と甲斐へ向う。その頃、信玄は京をめざし、西上作戦を展開していた。しかし、三河で病に倒れ、元亀4年(1573)4月12日、信州駒場で没する。信玄53歳であった。
信玄の死により、甲斐の土を踏めると思った信虎は、信濃の高遠城に身を寄せた。高遠城主は信玄の五男仁科盛信。後武田滅亡のとき、この城によって壮烈な戦死をとげる人物である。このとき信虎は、勝頼、信虎画像を描いた信廉、おそらくは松姫とも対面したとされている。
しかし信虎は、念願の甲斐入国を果たすことなく、信玄没して一年後の天正2年(1574)3月5日、伊那の娘婿根津神平(信玄の義弟)の館で老衰により生涯を閉じた。
享年81歳。信虎がすぐ甲斐に入国できなかったことについては、高遠で対面したときに散々悪口を言ったとか、信玄の喪が明けてから帰国するように勧められたとか、老衰で歩けなくなっていたなどの説がある。
勝頼はここ大泉寺に信虎を葬った。法号は大泉寺殿泰雲存康庵主。
武田信玄の登場
1521年に駿河勢から甲斐が攻められる中、母親大井夫人の避難先の積翠寺か要害城で生まれます。
1541年に父・信虎を駿河に追放して当主となる。姻族であり同盟関係もある諏訪(諏訪頼重)を攻め、さらに伊那(高遠頼継)を掌握する。駿河(今川氏)・相模(北条氏)と同盟を締結し、信濃方面への侵攻を本格化させる。
当時の信濃では群小の領主が乱立しており日和見状態のものが多かったが、その中で佐久の笠原清繁、松本平の小笠原長時、北信濃の村上義清らと戦う。
信濃を制圧すると武田の拡張を恐れる越後の上杉謙信と5度にわたる有名な川中島の戦いを行い、決着はつかないまま支配地を北に広げるのでした。
その間に西上野に侵攻します。今川義元が織田信長に討ち取られると駿河を攻め、今川・北条・徳川家康とも争うことになるのです。今川領を切り取り、北条氏とは和睦し、徳川領の三河にも侵攻する。
織田信長とは友好関係を保ちつつも双方とも警戒していたが、信長包囲網を築く中で上洛を目指し、その途中で病死する(1573年)。後継者としては本来は三条夫人の子である義信が想定されていたが謀反により廃嫡され、諏訪御料人の子・勝頼が代わることになる。これがのちの武田氏の分裂の原因となった。
武田信玄の生まれた頃、父信虎は甲斐の国をほぼ統一していた。駿河と甲斐は関係が悪く、信虎は駿河勢から攻められていた。後に駿河の代替わり争いのときに信虎が義元に味方したため、関係が好転し相模の北条も合わせて同盟を結ぶことになります。
関東では関東公方の足利氏と関東管領の上杉氏がそれぞれ分裂して勢力争いをしていたが、後に相模の北条氏に圧迫されることになります。このため上杉氏は越後の長尾景虎を頼り、景虎が関東管領を継ぎ上杉謙信となるのでした。
謙信は越後の国を統一し、関東や越中・信濃にも出兵し、北条氏や一向一揆あるいは武田氏と戦うことになった。
信濃の国は小笠原氏が守護であったが小領主が分裂し、信玄の介入を招くことになる。尾張の織田信長は信玄より10歳以上若年の守護代で、領国を統一・美濃を攻略し、桶狭間の戦いにより今川義元を討つなど勢力を広げていくのです。
義元がうたれた後の今川氏は松平氏が離反するなど弱体化し、信玄の介入を招くことになります。
信玄は信長とは友好関係を保ちながらも警戒し、正室三条夫人や保護している僧侶など様々な外交手段を通じて浅井・朝倉・一向一揆など信長包囲網を築き、将軍足利義昭の命令に則り西上を図ることになりました。
武田勝頼の不運
武田勝頼(別名・諏訪勝頼)は、父・信玄の没後に武田氏を継ぎ第20代当主となりました。
信玄の没後はもともと長男の義信が継ぐはずでした。
勝頼は母は信州・諏訪氏の出身で、勝頼は庶子として生まれ、一時は諏訪氏を継ぎましたが、異母兄である嫡子・義信が謀反容疑で廃嫡されたこと、また二男は失明・三男は夭折で、勝頼が嫡子となったのでした。
その意味では、勝頼は、あれよあれよという間に当主となる帝王学を学ぶまもなく当主とならざるをえなかったわけで、それが悲運の始まりだったのかもしれません。
ちなみに、名前からわかるように諏訪御料人の子で武田氏に伝わる『信』の字ではなく、諏訪氏に伝わる『頼』の字であり、かつての諏訪の家を継ぎ諏訪の高遠城主となっていた。
そのため諏訪での家臣団と甲斐での家臣団と勝頼の間で軋轢が起こるのでした。
信玄没後も治世に関しては一貫して信玄以来の拡大政策を採り、周辺の国々を攻略し領土を増やしていたのです。
しかし、上杉謙信や織田信長など百戦錬磨の戦国大名に囲まれて父信玄ほどの才覚はなく、武将としての知謀術策にも劣っていました。
天正3年(1575年)5月21日、時代は刀や槍から火縄銃へ移り変わっていったのに、相変わらず騎馬隊の突進力に頼る戦術に固執したため、長篠の戦いで織田・徳川連合軍の鉄砲隊に大敗を喫してしまいます。
武田方戦死者は実に1万4千余名。
名だたる有能な武将だけでも、甘利郷左衛門信康、内藤修理亮冒豊、土屋右衛門尉冒次、五味与惣兵衛貞氏、真田源太衛門信綱、真田兵部丞冒輝、山県三郎兵衛冒景、原隼人佐冒胤、馬場美濃守信房、小山田五郎兵衛冒輝、横田十郎兵衛康景、高坂又八郎助宣の12名も討死したのでした。
長篠の敗戦の後、勝頼は少ない部隊に守れながら甲斐へ帰国します。
しかし甲斐の国境を越える手前に高坂弾正が自分の部隊を引き連れ勝頼を待っていました。
高坂は勝頼が敗軍の将として帰国させることを不憫に思い、新しい甲冑を勝頼に着せ自分の部隊を勝頼に付け、甲斐に帰国させたという逸話が残っています。
このような逸話が残っているところから、勝頼は必ずしも人望に欠けた当主でもなく、また、家臣も精一杯盛り立てていたのではないかと考えられます。
その後、数回戦いを繰り返すのですが態勢の挽回には至らず、古参の軍師や重臣の多くを失った武田氏は急速に力が衰えていきます。
新兵器鉄砲の威力を思い知った勝頼は、新たに韮崎へ新府城を建設することにしました。
天正9年(1581年)12月、武田家3代が住んでいたつつじが崎の館を焼き払い、新築なった新府城に引っ越します。ついに祖父伝来の躑躅ヶ崎(つつじがさき 現在の武田神社)の館を捨てて、巻き返しをはかるため、1582(天正10)年に、今の韮崎市の七里岩に「新府城」を築城政治の中心地としました。
しかし、1582年2月末のこと、武田一族の親族筆頭、駿河江尻城主穴山梅雪が家康に招かれて下り、3月3日やむなく居城間もない新府城に火を放ち、勝沼を経て現在の大月駅の向かいにある岩殿山に向います。
ところが山深い笹子の山中で岩殿城主小山田信茂の背反の報を受け、天目山栖雲時(セイウンジ)の麓にある野田の地(東山梨郡大和村)に逃れ、そこで北条夫人、長男信勝とともに自害して果てるのでした。
武田勝頼の最後については諸説あり、華々しく戦って斬り死にしたとするものが多く、また嫡子・信勝とともに自害したというものもありますし、「改正三河後風土記」よると、事実は疲れ果てて、鎧櫃の上に腰をおろしているところに追っ手が切り込んできました。
勝頼は僅かに刀をとって戦う姿勢を見せたが、飢えと疲れで殆ど一合もと打ちあえずに、伊藤伊右衛門に討ち取られたといわれています。
いずれにしてもここに新羅三郎義光以来の名門武田氏は悲劇的な滅亡を迎えるのでした。信玄公没後10年足らずのことでした。享年36。
勝頼は父・信玄のようにカリスマ的存在ではなく、極めて人間味あふれる統率者であり、そのため直情的また短気で状況の全体感を見失いがちなところもあったようです。
父・信玄も、親族や譜代の家臣よりも、子飼いの家臣を重用するようになり、親族・譜代の間に不満が募るようになっていきました。
ゆえに信玄は死ぬまで家臣に心を許さなかったといわれています。確かにこの状態が続いていては若い勝頼に猛者ぞろいの武田家臣団の統率を求めるのはそもそも無理があります。
この地に徳川家康が寺を建てて勝頼公一族の菩提をともらったのでした。