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学ぶ(甲府の歴史、それは信玄公の足跡を追いかけること)

 甲府は、武田信玄や太宰治の歴史がたどれる寺社などが多く、歴史ファンのみならず多くの人が訪れます。
 また美術館やランドマークなどもあり、見どころいっぱいの街です。
 そんな甲府を訪れる大人の旅のために、地元の者しか知らないちょっとだけ詳しい話を加えて、ご紹介します。


武田氏の館・城を訪ね歩き

積翠寺

 武田神社の北北東方向、要害山の南西麓にある積翠寺は、行基の開祖とされ、『甲斐国志』に拠れば、古くは石水寺とされていたいたというが、これは境内の巨石から泉が湧き出ていたことで、石水寺と呼ばれていたようです。

 後に積翠寺と改められました。『甲斐国社記・寺記』に拠れば、南北朝時代に夢窓疎石の高弟竺峰を中興開山としたといいます。

 寺院裏に釣鐘をふせたような山(要害山)が見えますが、 これが『高白斎記』に拠れば、永正17年(1520年)つつじが崎の援護地として信虎が築城した要害城跡です。

  永正18年(1521年)11月3日に今川氏親の家臣 福島正成が1万5千の軍で甲府に進軍した「飯田原の合戦」において、武田信虎の正室大井夫人は要害山(要害城)に避難し、積翠寺にて信玄公を産んだといわれ、現在も境内には産湯を汲んだとされる井戸である産湯天神が残されている。

 戦国期には武田氏が主催する和歌や連歌会が行われ、積翠寺のほか甲府では一蓮寺や尊躰寺、東光寺などの寺院で開催されている。

 天文11年(1542年)3月9日には駒井高白斎が当座を務めた歌会が行われ、天文16年4月5日にも冷泉為和を招いた和漢聯句が行われている(『為和集』)。

 近世には慶長8年(1603年)に徳川四奉行から積翠寺村内に寺領を安堵されているが、判物は火災で失われています。

 寺宝として天文15年7月26日に後奈良天皇勅使として下向した三条西実澄・四辻季遠を招いて行われた句会の記録である『武田晴信和漢聯句帳』や、江戸時代に後陽成天皇皇子の八宮良純法親王が愛用したと伝わる硯箱・煙草盆が伝来しています。

以下は寺の説明版

当寺は臨済宗妙心寺派にして行基菩薩の開創による鎌倉時代夢窓国師の弟子竺峯(じくほう)和尚中興開山なり。大永元(1521)年福島兵庫乱入の節(飯田河原の合戦)信虎夫人当寺に留り期に臨み一男子を産む。これ即ち信玄なり。境内に産湯の天神産湯の井戸あり堂西に磐石あり高さ八九尺泉これに激して瀑となるよりて石水寺の寺名になり村名になると甲陽軍鑑に伝う。積翠寺名園は夢窓国師の築庭なり。寺宝に信玄像及び天文15年後奈良天皇の勅使として下向せられし三條四辻ニ卿と拙寺にて催されし信玄公の和漢聯句一連並に良純王親王より仰岩和尚に贈られし書簡等々現存す。

詳細情報
名称 積翠寺
住所 〒400-0011 山梨県甲府市上積翠寺町984
アクセス 中央自動車道甲府昭和ICから約20分
JR中央本線甲府駅より山梨交通バスで約20分


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