じっくり甲府を楽しむ大人には見逃せない観光スポット
酒折宮
戦国時代以降、関東と京の都を繋いだ甲州街道。その道には数多くの歴史が刻まれてきました。そして、酒折宮は、古代から歴史に登場することになります。ここは「古事記」・「日本書紀」によれば、日本武尊(ヤマトタケル)が東国の蝦夷を征伐しての帰途、立ち寄った際、行宮として設けられた酒折宮に起源をもつとされる神社です。
酒折宮はもともと背後の月見山の中腹(古天神)にあり、神奈備山(御神山)として崇められいましたが、いつしか現在地に遷座したとのことです。
山腹や本社の近くには古墳群が多数あり、古代の祭祀場といわれる磐座も点在しており、この一帯は古代の神域だったのかもしれません。
さて、日本武尊の東征は、「古事記」では尾張から相模・上総を経て蝦夷に至り、帰路は相模の足柄峠から甲斐国「酒折宮」へ立ち寄り、信濃倉野之坂を経て尾張へ至ったとしています。
一方、「日本書紀」では尾張から駿河・相模を経て上総から陸奥・蝦夷に至り、帰路は日高見国から常陸を経て甲斐「酒折宮」を経由し、武蔵から上野碓日坂を経て信濃、尾張に至ったとしています。
いずれにせよ「酒折宮」に立ち寄ったことが記載されており、これによると
『古事記中巻』
「即ちその国より越えて、甲斐に出でまして、酒折宮に坐しし時歌ひたまひしく、新治筑波を過ぎて幾夜か寝つるとうたひたまひき。爾に其の御火焼の老人、御歌に続ぎて歌ひしく、かがなべて夜には九夜日には十日をとうたひき。是を以ちて其の老人を誉めて、即ち東の国造を給ひき。」
『日本書紀巻七』
「常陸を歴て、甲斐国に至りて、酒折宮に居します。時に挙燭して進食す。是の夜、歌を以て侍者に問ひて曰はく、新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 諸の侍者、え答へ言さず。時に秉燭者有り。王の歌の末に続けて、歌して曰さく、日日並べて 夜には九夜 日には十日を 即ち秉燭人の聡を美めたまひて、敦く賞す。則ち是の宮に居しまして、靫部を以て大伴連の遠祖武日に賜ふ」
その様子は、以下のとおりです。
日本武尊が、酒折宮に着いたとき、旅情を慰め「新治、筑波を過ぎて、幾夜か寝つる」と、歌われました。つまり、筑波から甲斐の国に来るまでいく晩寝ただろうか、と歌で問いかけられたのです。
しかし、これに対し誰も答えることができませんでした。
すると、その時お傍で火を炊いていた老翁(御火焼(みひたき)の翁)が「かがなべてよには九夜ひには十日を」と[かひ(甲斐)] の文字を折り込んで当意即妙に歌でお答えしたのです。
日本武尊は、この老人(塩海足尼)の機知に感嘆し、彼を東国造に任命したということです。
酒折宮伝承はこの2人で1首の和歌を詠んだという伝説が、江戸時代には連歌の発祥の地として認識されることとなり、多くの国文学者や古代史学者が訪れる場所になりました。
境内には、1791年(寛政3年)、国学者の本居宣長は、甲斐在住の門弟である萩原元克に依頼され『酒折宮寿詞(よごと)』を撰文し、それから48年後の1839年(天保10年)になり平田篤胤の書によってようやく建立されたという『酒折宮寿詞』があります。
414字の漢字がぎっしり彫り込まれた『酒折宮寿詞』を見た作家の井伏鱒二は、「まるでクイズをやらされているようなものだ」と言ったといいます。
また、酒折宮のご祭神は当然にように「日本武尊」ですが、そのご神体としてまつられているのが「火打嚢」です。
記紀によると日本武尊はしばらくここに滞在し国内を巡視の後、信濃国に向かおうとする時、例の塩海足尼(しおのみのすくね)を呼び、「汝は此の国を開き益を起し、民人を育せ、吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」と述べ「火打嚢」を授けたといいます
「火打嚢」は、日本武尊が東征に向かうとき、伊勢の皇大神宮に参拝の折、同宮の祭主であり、叔母君の「倭比売命」から「草薙剣」と共に賜われたもので途中駿河国で、国造に欺かれて野原に火を放たれ火攻めに遭った際、剣で草を薙ぎ撥い、嚢の口を解き開き、向え火打って難を免れたものといいます。
塩海足尼は、これを奉戴し、のちに社殿を建て「火打嚢」を御神体として鎮祭したのが宮の起源ということです。
そんな古代歴史を紐解きながら境内を見て回ると、なんだかあの社の陰から神々が覗いているような不思議な気持ちにとらわれそうになる趣深い酒折宮です。
詳細情報 | |
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名称 | 酒折宮 |
住所 | 〒400-0805 山梨県甲府市酒折3丁目1−131 |
アクセス | JR中央本線酒折駅にて下車、徒歩5分 |