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学ぶ(甲府の歴史、それは信玄公の足跡を追いかけること)

 甲斐一国から約120万石まで勢力を増した信玄は、西上作戦の半ばで病に倒れました。
 天下統一こそしなかったものの、その存在はその後創作などで取り上げられ、現代に至るまで長く親しまれています。
 甲府は、武田信玄が生まれ活躍した土地です。信玄ゆかりの地も数多く残され、信玄ファン、歴史ファンのみならず多くの人が訪れます。
 そんな甲府を訪れる大人の旅のために、地元の者しか知らないちょっとだけ詳しい話を加えて、ご紹介します。


武田氏ゆかりの地を訪ねて

入明寺

 入明寺は、信玄公と大変ゆかりのある寺です。
 入明寺は、浄土真宗の寺で、御本尊は阿弥陀如来。
 長享元年、村上天皇の子孫である六条有成卿が、本願寺中興の祖第八世蓮如上人によって得度し、浄閑と名乗り甲州路に入り、武田信玄の庇護のもとに稲積の庄青沼の里に草庵を建立して開山した寺で、もともとは「長元寺」といいました。
 二代目誓閑の時代に現在地住吉本町に移りました。
 三代目栄閑の時、入明寺と改め、四代栄順の時、「内藤」と名乗り今日に至っています。

 ところで、信玄の念願は京にのぼることでしたが、このためには上京経路で力を誇っていた「一向宗」とのつながりを持つことが必要でした。そこで信玄は入明寺住職が京都の公卿の出であったので、二代誓閑、三代栄閑の二人に協力を求めます。
 二人は、石山本願寺第11代法主顕如上人の裏方が三条左大臣従一位公頼卿の息女だったので、裏方にお願いしてその妹と信玄との婚姻をとりもっことになります。
 天文5(1536)年、京からはるばる甲州路に輿入れされ、今川義元の媒酌により結婚式があげられました。
 これが信玄の正室三条夫人であり、太郎義信、次郎信親(竜宝)の母となります。

 この寺には、信玄の次男武田信親「竜宝(芳)」の墓があります。
 信玄と諏訪夫人の間に諏訪四郎勝頼が生れてより信玄の跡目相続をめぐって争いが起き、太郎義信は割腹自殺して果てた。本来ならば、太郎義信亡き後、次郎信親が家督を継ぐべきでしたが、幼少より目を患い、盲目となってしまったので勝頼が跡を継ぎます。
 信玄は不具の子供である信親をことのほか可愛がり、永禄4年信州の海野の城を攻め落とした時、信親をこ入明寺の城の城主とし、海野二郎信親と名乗らせた。
 また髪をそって、半僧半俗の生活をしていたのと、居城が城北の聖道小路にあったことから「お聖道様」とも呼ばれました。

 家臣武田二十四衆が、長篠の合戦にて全員戦死し、戦雲急を告ぐる時、入明寺四代住職栄順は海野より信親公を自房にかくまっていた。
 しかし、天正10年(1582)、武田勝頼が天目山の戦いで敗れると、悲報が伝わったその夜、信親は入明寺境内で従容として自刃(42歳)します。栄順は、遺骨を寺内に埋めますが、「紅梅一本植えて墓標となす。」と甲斐国誌に明記されています。これは敵に悟られないためであったと考えられます。
 寺には、位牌や信玄公から8代後の護信が作った信親の木像が伝えられています。



詳細情報
名称 入明寺
住所 〒400-0851 山梨県甲府市住吉4丁目13−36
アクセス JR身延線南甲府駅から徒歩15分/甲府駅南口からバス15分・伊勢町営業所下車、徒歩15分


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