松姫を慕う人々
武田信玄と松姫
甲斐の武田家は新羅三郎義光(源義家の弟)を先祖とする名門。甲斐にあった武田荘の荘官となってから武田と名乗っています。
戦国武将として名高い武田信玄は甲斐源氏が守護を務め始めてから19代目の当主です。
武田信玄は、『高白斎記』によると、大永元年辛巳11月3日石永寺の要害城で誕生。
幼名は太郎、勝千代。母は大井信建の娘。名乗りは源晴信。
しかし、晴信(のちの信玄)は、甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男として生まれながら、「異相の子」として父・信虎に冷遇されます。
甲斐は独立心の強い家臣が多く、武田信虎は諫言した家臣を手打ちまたは追放しました。晴信(のちの信玄)は、父・信虎の暴政を見て対立関係にありました。
そこで、1541年に、晴信(のちの信玄)は、21歳にして信虎の暴政に苦しむ家臣団の意を鑑み、重臣の板垣・甘利・飯富等に推され、暴虐の限りを尽くす父・信虎に対しにクーデターを断行し、信虎を駿河に追放、甲斐国の領主として家督を継ぎます。
そして、北に上杉謙信、西に織田信長、南に若き徳川家康。無敵の武田軍を率い、割拠する勇将たちと覇を競います。
妹婿の諏訪頼重を滅ぼしたことを皮切りに、信濃を平定していきました。
ついで高遠頼重、小笠原長時と順調に勝ち進めるが、砥石城で村上義清に敗れます。その後、真田幸隆の謀略もあり村上義清を追い払うことに成功します。
北信濃の豪族である小笠原長時・村上義清が頼ったのは越後の長尾景虎(上杉謙信)でした。
越後の長尾景虎に亡命したので、景虎とは5度にわたり川中島の戦いで戦うことになる。
中でも第4次川中島の戦いは一騎打ち伝説が攻勢語られる激戦といえます。それにしても海津城付近の領地化に成功、戦略的には成功を収めたのでした。
武田信玄33歳の天文22(1553)年から12年にわたり、5次にわたると言われる川中島の戦いを行いつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて武田氏の領国を拡大していくのでした。
さて、松姫は永禄4年(1561年年)9月、躑躅ヶ崎館(信玄の居城)で誕生しました。母は側室の油川ご寮人で四女とも六女とも言われる。
実は、松姫誕生の折も、信玄は、上杉謙信と川中島で合戦中であり、その日の戦いから信玄が帰陣した際、早馬で姫出生の知らせが届いた。
武田信玄は戦に出ると直ぐに良い松の木を見つけ、「旗立の松」として、その松の基に、孫子の旗「風林火山」を建てていました。
41歳になった信玄は「姫出産」の知らせを聞いて大変に喜び、ふと眼を転ずると傍らには、大きな松の木がありこれにて戦勝間違いなしとし、「松」と命名するよう伝達する命を発したという。
つつじが崎屋敷では特に可愛がられ新しい館も建てられいつしか新館の姫と呼ばれるようになったという。
武田信玄は、謙信と戦いながらも、駿河の今川義元と相模の北条氏康との間に三国同盟を結びます。越後の領有こそ失敗したものの、謙信領の西上野を攻略したのです。
しかし、駿河の今川義元が桶狭間の合戦で戦死すると、今川家は衰え始めます。そこで信玄は、三河の徳川家康と同盟を結び、今川軍を破って駿河一国を攻略したのです。その際、今川攻めに反対した長男・武田義信を自決させています。
さらに今川と同盟を結ぶ北条氏康を破って、小田原城も包囲します。
北条と改めて同盟を結んだ信玄は、その後、足利義昭の反信長同盟に応じ、上洛を試みます。三方ヶ原の戦いで徳川家康を破るが、野田城を包囲中発病、甲府へ帰る途中、信濃駒場で死去。死は対外的に3年間隠された。
さて、信玄は、幼い頃から、母 大井夫人が招いた岐秀元伯和尚に「孫子」を学び、文学や宗教にも強い関心を抱いて育ったと伝えられます。
このため信玄は、修行道場屈指の名僧を甲斐に招き、最高の知識を学んで自己修練を重ねるとともに、向嶽寺に壁書を与えて学問を奨励したり、熊野神社を修復したり、恵林寺を自らの菩提寺、雲峰寺・菅田天神社を武運長久の祈願所と定めたりと、古くからの神社・仏閣の保護にも努めました。
武田家滅亡により、松姫が逃避行となる際、こういった信玄が庇護した寺社が松姫を手助けすることになります。
また、武田信玄の旗といえば孫子の有名な句「風林火山」で有名ですが、武田信玄は軍学の中で孫子を好んでいたからだといわれています。