心源院 松姫ゆかりの地を訪ねて~松姫の物語

松姫ゆかりの地を訪ねて


松姫と深澤山心源院

  「深澤山心源院」の開創は、延喜年間(901~923年)と伝わります。智定律師が律宗の寺として創建した一宇心源院とと松姫を醍醐天皇が官寺にして心源鎮静護国院と改めたもの。 

 後武蔵国守護代大石遠江守源定久を開基とし高尾山石雲院より開山として李雲永岳禅師を請して曹洞宗に改宗、現在に至っている。

 年不詳ながら江戸幕府より寺領20石の御朱印状を受領、末寺15ヶ寺を擁する中本寺格の寺院。
 参道にある総門は室町時代のもので四脚門といい大変珍しいものだ。
 なお、昭和20年、八王子大空襲の際、七堂伽藍の全てが焼失したため、現在の本堂は昭和47年に再建したものです。
心源院と松姫
以下「八王子史」より引用する

「心源院(下恩方村―下恩方町一、九七〇)
昭和二〇年の戦災によって、堂塔伽藍の一切を焼失したが、江戸時代から戦災前までは、本堂(一二間に七間半、山門をはいって正面にあり、本尊釈迦木像にて丈八寸を奉安)、開山堂(本堂の裏にあり、四間に三間)、鐘楼(九尺四方、本堂に向って右にあり、延宝七年鋳造の鐘、口径二尺五寸、高三尺四寸余)、山門(五間に三間半、本堂の前に有り、聖観音および十六羅漢像奉安)、秋葉社(本堂に向って左の山上にあり、本社は二間四方で前に拝殿を建つ、当社は河原宿の鎮守で、例祭は八月一七日、焼失前の大般若経は当社のために奉納されたものであった)およ心源院と松姫び庫裡があったが、ついに秋葉社以外本尊などを初め過去帳・古記録の一切をあげて焼失したのは惜しむべき文化財の損失であった。当社は深沢山と号し、江戸時代御朱印寺領の内、境内五、六七五坪、文明一六年(一四八四)の創立、遠州(静岡県)棒原郡高尾村石雲院末、九〇年に一回本山輪番の寺で御朱印寺領二〇石、開山季雲永嶽(大永六年 一五二六 二月一五日寂)、開基大石遠江守定久(心月斉英厳道俊居士)である。」

 さて、天正10年(1582)、織田・徳川連合軍は、伊奈口から攻めたて、仁科盛信は織田の降伏呼掛けを拒否、徹底抗戦しますが、抗しきれず自害、松姫は盛信の遺児を連れて勝頼たちとは別行動をとり、武蔵国多摩郡恩方(現在の東京都八王子市)の金照庵(現在の八王子市上恩方町)に逃れ身を寄せます。

 同年秋には松姫は「心源院」に移り、当山六世随翁舜悦ト山禅師より剃髪を受け、心源院と松姫仏門に入り「信松尼(しんしょうに)」と称して父信玄をはじめとする武田一族と婚約者であった織田信忠の冥福を祈る日々を送ります。
 
 「信松尼(しんしょうに)」の「信」の字は父である信玄からとったともいわれていますが、信忠の妻であるという意味が込められているとも伝えられているそうです。ほんとのところはわからずあくまで憶測ですが、なんだかジンときます。

 なお、ト山禅師は赤ん坊の時に捨てられていたのを僧侶に拾われ育てられています。そして120歳までの長寿を全うしているとか。心源院と松姫
 卜山は13歳のとき、広園寺で出家し、やがて元八王子城山の青竜寺の近くに庵を結びます。ここで八王子城主の北条氏照と知り合い、永禄9年(1566)、氏照に招かれて牛頭山宗関寺の第一世に就きます。

 天正元年(1573)、卜山は弟子に宗関寺第二世を譲り、心源院第六世となります。
 
【交 通】
最寄駅
JR中央線、京王電鉄高尾線『高尾駅』より車で12分
西東京バス(霊園31・陣05)『上川原宿』バス停より徒歩4分
西東京バス(医01・霊園21・霊園31)『川原宿大橋』バス停より徒歩4分

【住 所】
 〒192-0154 八王子市下恩方町1970