新府城(松姫兄の新城)

松姫ゆかりの地を訪ねて


新府城(松姫兄の新城)

  新府城は、現在の山梨県韮崎市中田町にある平山城で、続日本100名城のほか、1973年(昭和48年)には「新府城跡」として国の史跡に指定されている。

 この新府城は、八ヶ岳の岩屑流を釜無川と塩川が侵食して形成された七里岩台地上に築かれている。
 西側は侵食崖でその下には釜無川が流れ、東には塩川が流れている。
新府城と松姫
まずは、案内板からその外観をみてみる。

「国指定史跡新 府城跡

昭和47年7月21日指定

新府城は、天正 10年3月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼自ら火を放って東方郡内岩殿城を指して落ちていった武田家滅亡の歴史を伝える悲劇の城跡である。

 本城は南北600メートル、東西550メートル外堀の水準と本丸の標高差80メートル。型式は平山城で、近世城郭のような石垣は用いず、高さ約2.5メートルの土塁を巡らしている。

 最高所は本丸で、東西90メートル、南北120メートル、本丸の西に蔀の構を隔てて二の丸があり馬出しに続く。
 本丸の東に稲荷曲輪、二の丸を北方に下れば横矢掛りの防塁があり、その外側に堀を巡らしている。
新府城と松姫
 堀は北西から北、北東へと巡り、北方の高地からの敵襲に備えて十字砲火を浴びせるための堅固な2ヵ所の出構が築かれている。

 三の丸の南方には大手が開け望楼があり、三日月形の堀とその外側に馬出しの土塁が設けられている。
 本丸と東西三の丸、三の丸と大手等の間には、帯曲輪、腰曲輪がある。搦手にも望楼がある。蔀の構、出構は新府城の特色で防御のために工夫されたもので、特に出構は鉄砲のような新鋭兵器をもって敵の攻撃に対抗するために工夫された構えといわれる。
昭和60年3月
文化庁
山梨県教育委員会
韮崎市教育委員会」

 本丸・二の丸は躑躅ヶ崎館の本曲輪・西の曲輪に相当し、規模も同程度であるため、この新府城も政庁としても使用する意図があったと思われる。

 新府城には甲州流築城術が凝縮されている。
 後に、徳川と北条がこの地の覇権を争った際、徳川家康はこの城を修復して本陣とし、数倍の兵力の北条氏直を翻弄して戦を有利に戦ったとされている。

 新府城と松姫新府城の史料上での初見は、天正9年(1581年)に武田勝頼が家臣の真田昌幸へ普請を命じたもの。
 甲斐の府中である甲府(躑躅ヶ崎館)に対して、新府と名付けられた。

 天正3年(1575年)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に武田軍が敗北した後、勝頼は領国支配を強化するようになり、河内地方から織田・徳川領国と接する駿河を領する穴山信君が織田軍の侵攻に備えて七里岩台地上への新たな築城を進言したといわれている。

 天正9年12月、武田一族はつつじが崎の館から新築された韮崎の新府城に移った。
運命の天正10年正月には新府城において武田家一族の新年会と新築祝いが催された。
 この新年祝いの会に参列した高遠城主で松姫の実兄仁科五郎盛信は、21歳の見目うるわしくなった姫を高遠城に連れていき結婚をすすめたが松姫はこばむばかりであったという。

 新府城にも危険が及ぶ可能性が高い事から、松姫は、更に武田勝頼の娘・貞新府城と松姫姫(4歳)、武田一族小山田信茂の香貴姫(4歳)や仁科盛信の嫡男・仁科信基らを連れて、更に東へと逃れます。

 天正10年(1582年)勝頼は、信濃での外戚の木曾義昌の謀反を抑えるため、諏訪へ出兵するが、織田・徳川の連合軍に阻まれ甲斐国へ戻った。

 勝頼の弟・仁科盛信が守る高遠城も陥落し、武田内部には、武田家の衰退をみて敵方に寝返る者も出た。 

 木曾義昌は新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返ったと考えられていて、やはり新府城築城による財政破綻が原因となっている。

 織田軍はさらに信濃国へ侵攻して、深志城が開城、さらに下伊那衆全体が織田方に寝返るなど、武田軍は総崩れになります。

 勝頼は諏訪へ兵を進め、塩尻峠で織田軍を迎え撃とうとしましたが、ここで穴山新府城と松姫信君が徳川方に寝返ったため、勝頼は新府城に退却します。

 穴山信君の裏切りを知った武田軍の将兵は人間不信を起こし、疑心暗鬼に苛まれた将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては次々と逃げ出したのです。穴山信君の裏切りは、武田氏滅亡の決定打となったわけです。

 天正10年 3月初め、勝頼は新府城において、真田昌幸の岩櫃城に逃げるか、小山田信茂の岩殿城(大月市)に逃げるか軍議を開いた。

 昌幸は要害である岩櫃城行きを勧めたが、信茂が岩櫃城までは遠路に加えて雪が深いことを理由に岩殿城行きを主張した(新府城から岩櫃城までは、北に直線約95kmで遠く山深い。新府城から岩殿城までは、東に直線約45km)。

 勝頼は、最終的に、信茂が支配する岩殿城行きを決意し、構築中の新府城に火を放ったのである。

 そして、勝頼とその嫡男の信勝一行は岩殿城を目前にした笹子峠(大月市)で信茂の裏切りに会い、衆寡敵せず、勝頼、信勝父子は天目山(甲州市大和町)にて自害したとされている。

山梨県韮崎市中田町中條
電車にて
JR新府駅下車、徒歩15分
自動車にて
中央自動車道 韮崎ICより15分前後