松姫ゆかりの地を訪ねて
高遠城(松姫兄の居城)
「高遠城」は長野県伊那市にある平山城で「兜山城」とも呼ばれている。 高遠城の築城年代は不明とされているが、もともとは高遠頼継(たかとおよりつぐ)が拠点にしていた城と考えられています。
それが、1545年頃、戦国時代になって甲斐の武田信玄によって滅ぼされ、天文16年(1547年)に大改修が行われました。
以後、信玄の近親者ばかりが城主となっていることからも、この城が南信濃支配の重要拠点とされていたことがうかがえます。
また、武田信玄の命により山本勘助が縄張(設計等)をしたと伝えられているが、築城当初この勘助曲輪はなく、大手口を東側から西側へ移した際、新たに造成されたのではないかと言われている
三峰川と藤沢川の合流地点の河岸段丘上に建つ高遠城は、段丘の上から見ると平城のように見えるが、他三方から見ると山城のように見える。「平山城(ひらやまじろ)」と呼ばれる形の城です。
東側さえ防御すれば、それ以外からの攻撃は困難で、天然の要塞となっている。川からの比高は約70m。
本丸を段丘の突端に置いて、北から東に二ノ丸、三ノ丸などをめぐらす縄張で、曲輪の間には深い空堀を設けており、武田氏の軍事拠点として重きをなした。
永禄5年(1562)には武田勝頼が城主となったが、元亀元年(1570)武田信玄は勝頼を自分の後継者として甲斐に戻らせ、信玄の弟信廉が城主となる。
次いで天正9年(1581)には勝頼の弟の仁科盛信が高遠城主となる。
天正10年(1582)2月織田信長は信玄亡きあとの武田氏を一挙に滅ぼすために伊那口から長男信忠の率いる5万の大軍を送り込んだ。
この大軍に恐れをなした伊那谷の城主は城を捨てて逃げ、或いは降伏して道案内をするなど織田軍は刀に血を塗らずして高遠に迫った。
城主仁科五郎盛信は降伏を勧める僧の耳を切り落として3千の手兵をもって敢然としてこの大軍を迎え撃った。
要害堅固をもって響いた城であり、城主盛信以下将兵は、決死の奮戦をするも兵力の差は圧倒的であり、3千の兵はことごとく討ち死にしたという。
城主盛信は腹を掻ききり、自らの手で腸を壁に投げつけたと古書は伝えている。
さて、そのころ、21歳の松姫は、躑躅ヶ崎館から、兄の仁科五郎盛信のすすめで、盛信の居城高遠城下の屋敷で暮らしていた。
ところがそんなのも束の間、織田信忠が高遠城に迫ったため、急ぎ新府城へ戻ります。
その時松姫は、兄盛信の四歳になる督姫を連れ、さらに途中韮崎の新府城に立寄って勝頼の姫で四歳になる貞姫や、小山田信茂の四歳になる香貴姫も伴います。
護衛の武士に守られながら一行は、父祖の地甲斐を後にして見知らぬ他国の関東を指して落ちのびられます。
高貴の姫ながら真冬に幼い姫たちを連れた逃避行は難渋を極めたでしょう。
江戸時代の高遠には、高遠城を拠点に高遠藩が置かれました。関ケ原の合戦の後、家康の指令により、保科正光が高遠城に入ったのが元和3年(1617)年のこと。そして、正光の没後、跡を継いだのが、二代将軍秀忠の子、保科正之です。
高遠城は今、城址公園となり、園内には二千七百本もの桜が植えられ、桜の名所として全国に知られている。
桜は『コヒガンザクラ』と言って花弁が小ぶりで、少し紅いという。
この地で壮絶な死を遂げた人々の流した血が花に乗り移った、と言う言い伝えがある。
長野県伊那市高遠町東高遠
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(3)JR飯田線伊那市駅からバスで25分(⇒下車徒歩15分)