松姫ゆかりの地を訪ねて
金竜山信松院(松姫ここに眠る)
東京都八王子市台町に、曹洞宗の金竜山信松院がある。この寺は、甲斐(今の山梨県)武田家の旧臣で、そののち、徳川家康の家臣となった、大久保十兵衛長安の尽力によって建てられた尼寺だが、ここに眠るのが武田信玄の娘松姫である。
武田菱のついた門のそばには、旧武田家臣の多く住む八王子へ落ちた時の松姫の姿があった。
松姫は永禄4年(1561)9月に生まれ、7歳のときに、織田信長の嫡子で当時11歳の信忠と 婚約したが、その後、武田、織田家が不和になったことで、この約束は果たされなかった。その後の縁談も断り、尼となって一生を終えた松姫に共感する女性が多く、この信松院は歴女にとっても欠かせない観光地となっている。
武田信玄の没後1582年に織田信忠率いる大軍が甲斐へ攻め込んだ際、松姫は高遠に在城していたが、急ぎ甲斐に戻ることになる。
兄仁科盛信の4才の娘である督姫を連れ、更に途中韮崎の新府城に立ち寄って勝頼の4才になる姫である貞姫と小山田信茂の4才になる姫である香貴姫も伴って更に東に落ち延びます。
苦難の逃避行の末、この八王子に安住を求め、八王子城・北条氏照の庇護を受けた。
そして、松姫は、北条氏照の祈願寺であった心源院に移って出家、そして、信松尼は1590年に現在の信松院の地に草庵を移した。
信松尼は旧武田家臣が多かった八王子千人同心の心の支えとされ、庵に居た頃、土地の人々に糸を紡ぎ、絹を織ったりして織物の技を伝え、後世八王子織物として発展していくことになったという。子どもたちには手習いなども教えて暮らしたと言う。
1611年、第2代将軍・徳川秀忠の4男を、側室のお静の方(お志津の方、浄光院)が武州安達郡の大牧村(浦和市)にて産んだが、これは江戸城北の丸にいた松姫の姉である見性院(穴山信君の未亡人)が自分の領地である大牧村(1000石)に連れて行き、出産を手助けした経緯がある。
これには、最初にお静の方が身ごもった子は、徳川秀忠の正妻・於江与の方(お江)の悋気に触れて、水に流れてしまった事もあったからの処置であり、生まれた庶子は江戸城から離れた場所で、見性院が養育し、一時、松姫も預かって養育を行った。
松姫は元和2(1616)年56才で没した。法名は、信松院殿月峰永琴大禅定尼である。この庶子は1617年、旧武田家臣の信濃高遠藩主・保科正光が預かると、のち高遠藩を継ぎ・保科正之と称した。
松姫らが手助けしたこの保科正之は会津中将として、のち会津藩23万石となり、その子孫には幕末に活躍した松平容保らがいる。
松姫が眠るのは信松院の墓所で一段高くなっている場所で、大きな松の木がまるで松姫さまを抱くように空にかかっている。
松姫は、元武田家の家臣である千人同心や大久保長安の心のよりどころでもあり、墓を囲む玉垣は、没後132年目に千人頭・千人同心らが寄進したもの。
また一緒に甲斐から逃れてきた松姫の兄・仁科盛信の娘・小督(出家して玉田院)の墓は大横町の極楽寺にある。
信松院は、1945年(昭和20年)の八王子空襲にて、焼失はまぬがれたが、松姫が植えたとされている「松」が枯れてしまっている。
信松院が所蔵する「木製軍船ひな形(東京都指定有形文化財)」は、檜材と竹材で作られた精巧な縮尺1/25の2艘の軍船模型。大きい方は安宅船で、長さ100cm。
安宅船は室町末期から江戸初期に水軍で使用された軍船で、攻撃力、防御力、耐波性に優れ、近代の戦艦に相当する。2人漕ぎの櫓が40挺つき(大櫓40挺立て)、大筒と鉄砲を装備するため、船首の平らな箱造りの伊勢船型になっている。重装備で安定性を第一とした幅広い船型のため、速力にやや劣り、敏詳さに欠ける。
もう一つの関船は、1人漕ぎの櫓が42挺ついた(小櫓42挺立て)長さ80cmの中型船。安宅船に対していわゆる巡洋艦の役割を持つ船のため、速力を出すための波切りのよい鋭角的な船首を持ち、細長い船型をしている。
附の正徳4年(1714)の仁科資真寄付状と寄付目録によれば、仁科家の祖先が小早川隆景に謁して船戦の法を教授された際、文禄・慶長の役(1592-98)に使われた軍船を模して制作、尼公百回忌に寄進されたもので、当時の船を知る貴重なもの。(八王子市教育委員会掲示より)
また、木造松姫坐像(八王子市指定有形文化財)は、寄木造、玉眼。彩色されており、剃髪し法衣に袈裟をつけた尼僧の姿で、松姫百回忌に当たる正徳五年(一七一五)頃の作製と考えられています。(八王子市教育委員会掲示より)
【交 通】
JR西八王子駅南口より徒歩15分
JR八王子駅南口より京王バス西八王子駅行き5分、信松院下車
【住 所】
〒193-0931 八王子市台町3-18-28
電話 042-622-6978