松姫を慕う人々
武田勝頼と松姫
武田勝頼は天文15年(1546)に生まれている。
生母は諏訪姫、父信玄は名族・諏訪頼重を滅亡させて、その娘である諏訪姫を側室にしていた。
二人の間の四郎勝頼の誕生は、諏訪家の存続を意味するものであり、諏訪の人々はそれを喜んで、人質を甲府に送って武田家に忠誠を誓ったといいます。
松姫にとって勝頼は異母兄にあたります。
そして、永禄五年(1562)に17歳で元服し、諏訪四郎勝頼と名乗っています。
勝頼は美濃の明智城や遠江の高天神城を攻め落として、その全盛期を誇ります。
軍内では信玄の時代よりも強くなったと囁かれ、信長をして「信玄の軍法を守り、表裏をわきまえた恐るべき敵」と評価するほどだったといいます。
しかし、それは長く続きませんでした。
以降、勝頼は織田信長、徳川家康らと戦うが、徐々に劣勢に追い込まれます。
1575年徳川軍8千と織田軍3万が来襲、信玄遺臣は甲府撤退または長篠城攻城を説くのですが、勝頼は野戦を決断、馬防柵と鉄砲の三段撃ちで撃破され山県昌景・馬場信春・原昌胤・真田信綱など武将の大半を喪う惨敗を喫したのです(長篠の戦い)。
長篠の戦に敗れた武田勝頼 が織田・徳川連合軍に追い詰められると、勝頼は異母弟の仁科盛信を南信濃防衛のために高遠城主に任じます。
この時、松姫もまたこの同母兄の盛信と一緒に高遠城に入ります。
天正10年(1582)畿内を平定した信長は木曽義昌(信玄の娘婿)の寝返りを機に甲州征伐に乗出し織田・徳川・今川の軍勢が三方から甲斐へ侵入、勝頼を裏切った穴山信君は、家康の案内者となり、駿河から甲斐へと侵攻し、勝頼の籠る新府城を目指します。
松姫の兄、仁科五郎盛信は、次々と主家を見捨てて裏切ったり逃げ隠れたりする一族、家臣団のなかで、連合軍に降るのを拒んで激しい抵抗をし高遠城を枕に壮絶な最期を遂げます。
実は、松姫は、その年の正月に兄、仁科五郎盛信のすすめで、盛信の居城高遠城を訪れていました。
ところが織田の軍勢が攻めてくるという報せに、急ぎ甲府へ戻ることになります。
その時松姫は、兄盛信の四歳になる督姫を託されます。さらに途中韮崎の新府城に立寄って勝頼の姫で四歳になる貞姫や、小山田信茂の四歳になる香貴姫も伴います。
護衛の武士に守られながら一行は、父祖の地甲斐を後にして見知らぬ他国の関東を指して落ちのびることができます。
一方の勝頼は、高遠城(長野県伊那市)をはじめ、味方の諸城が次々と陥落したので、非常に焦っていました。しかも、織田信忠や家康の軍勢が新府に向かっているとの情報までもたらされたのです。
この状況に、さらに武田方を見限る家臣が続出し、一門や家老らは早々に逃げ出すありさまでした。すでに、勝頼の周囲には守備をすべき軍勢すら足りないというありさまだったといいます。
勝頼は危機的な状況を迎えるなかで、新府城で籠城するのは困難と判断します。
勝頼は新府城に火を放つと、家臣の信茂を頼り、岩殿城(山梨県大月市)に向かうことにしました。
こうして勝頼の一行は、ようやく岩殿城へ近づいたのです。ところが、『信長公記』によると、勝頼は小山田の館にたどり着いたが、信茂は勝頼を受け入れなかったのです。
『甲陽軍鑑』では、勝頼は郡内領への入り口の鶴瀬(甲州市大和町)というところで、7日間にわたり滞在し、信茂の迎えを待ったとあります。
そして、信茂は郡内領への道を封鎖すると、勝頼に木戸から郡内へ逃げるよう呼び掛けたのです。しかし、それは信茂の作戦で、小山田八左衛門と武田信堯が信茂の人質を郡内へ退避させると、何と勝頼らに鉄砲を撃ったと書かれています。
『甲陽軍鑑』によれば、天正10年3月11日の朝、天目山の郷人たちは、ついに勝頼を裏切ります。その数は、およそ6000余。大将の辻弥兵衛が先頭に立って、勝頼に攻撃を仕掛けたのでした。
その一方で、織田方の大将の滝川一益、河尻秀隆も5000余人の軍勢を率い、勝頼に攻めかかります。
武田勢はまったくの無勢で、相手にならなかったといいます。
勝頼は嫡男の信勝に対し、武田氏に伝わる重宝の御旗・楯無を持って、奥州を目指して逃げるよう命じますが、結局、信勝も共に討ち死にしてしまいます。信勝の母は、織田信長の姪でした。
勝頼の近くには土屋昌恒がおり、弓矢で奮戦をしていたが、敵の槍に突かれ絶命します。
勝頼は昌恒の体に刺さった槍を引き抜くと、そのまま敵を6人切り伏せたといいます。
しかし、こののち勝頼は喉と脇の下に計3本の槍を突かれ、ついに織田方に首を取られたのでした。享年37。
なお、信長は3月14日、浪合(長野県阿智村)で勝頼らの首を実検しています。