松姫を慕う人々
織田信忠と松姫
信忠は、弘治元年(1555年)から同3年(1557年)間に、織田信長の長男(信正が実在すれば次男)として尾張国で生まれます。
母は側室の生駒吉乃(または久庵慶珠)で信長二男の織田信雄は同母弟にあたります。乳母は慈徳院といわれています。
信長の正室は濃姫(帰蝶)ですが、彼女との間には子供がいなかったことから、生駒吉乃は事実上正室のような立場だったようです。
信忠は顔が奇妙だったことから奇妙丸と名付けられました。
永禄年間に織田氏は美濃国において甲斐国の武田領国と接し、東美濃国衆・遠山直廉の娘が信長の養女となり、武田信玄の世子である諏訪勝頼の正室となって、婚姻同盟が成立していました。
しかし、『甲陽軍鑑』に拠れば永禄10年(1567年)11月に勝頼夫人が死去したことで、武田との同盟関係の補強として11歳のころの信忠と信玄六女・松姫と婚約が成立していました。
信忠は、父信長からの一目おかれるような戦上手であったとされ、織田軍の数々の合戦で総指揮を取りました。早い時期から信長の後継者とみられていたようです。
その信忠は、元亀3年(1572年)の7月、浅井長政の小谷城攻めにおいて初陣を飾っています。
この頃の信長は将軍義昭を中心とする反織田勢力、いわゆる信長包囲網が敷かれていて多くの合戦に明け暮れていた頃でした。
この時、松姫の実家である武田家は、織田家と同盟を組んでいた家康の領国内に侵攻し、さらには将軍義昭の信長包囲網に呼応して西上作戦を開始します。
これにより、松姫との婚約は事実上解消となり、あろうことか、その約10年後には2人は敵同士となりました。
『信長公記』の記録から信忠の元服は天正元年(1573年)7月に行なわれたとみられ、1つ年下の二男信雄・三男信孝と一緒に岐阜で元服式を行い、「勘九郎信重」を名乗りました。
天正2年(1574年)7月より、信長の天敵だった長島一向一揆の殲滅に向け、信忠をはじめ織田の主要な将のほとんどが出陣します
このとき陣容は3つに分けられ、信忠は信長本隊や柴田勝家や丹羽長秀などの主力武将とは異なる陣に属し、独自の軍を率いて遊撃軍としての役割を果たしました。
早くも後継者としての特別な扱いがみてとれます。
そして天正4年(1576)濃姫の養子となり織田家の家督を継承します。
これは信長にとって、天下人と織田家当主の立場を分けるため(信長=天下人、信忠=織田家当主)だったと考えられています。
美濃東部と尾張の一部を任され岐阜城主となった信忠は、次々と出世し将軍格になることを目指します。しかし、足利義昭が征夷大将軍だったため、信忠は征狄将軍に就任することになりました。
長篠の戦いに勝利した信忠は、続く岩村城の戦いで総大将として敵方の武将・秋山虎繁を降伏させて岩村城を開城させ、天正5年(1577)の雑賀攻めでも中野城を落として雑賀孫一らを降伏させるなど武功を上げました。
この
また、かつての畿内の実力者であった松永久秀が信貴山城で謀叛した時、明智光秀や秀吉ら諸将の指揮を執り、信忠は初めて総大将となりましたが、老獪な久秀をあっという間に滅ぼしています。
天正10年(1582年)の甲州征伐でも、総大将として出陣しており、徳川家康や北条氏政とともに、5万人の軍勢を率いて武田領に侵攻しています。
この戦いでは、伊那方面から進軍して、武田方の拠点である信濃南部の飯田城や高遠城を攻略し、信忠自ら陣頭に立つなど奮戦しました。
松姫の兄仁科盛信が城主である高遠城攻略においては自ら搦手口で陣頭に立って堀際に押し寄せ、柵を破り塀の上に登って配下に下知しています(『信長公記』巻15)。
信忠の進撃のあまりの迅速さに、体勢を立て直す余裕すらなく諏訪から撤退した武田勝頼は、できて間もない新府城を焼き捨てて逃亡することになるのです。
そして、ついに信忠は度重なる追撃戦により、信長の本隊の武田領内への侵攻前に、武田勝頼・信勝父子を天目山の戦いにて自害に追い込み、武田氏を滅亡させたのです。
後から信長本隊が続く予定だったにもかかわらず、これを待つことなく信忠は最初から最後まで単独で指揮して武田軍団に圧勝してしまったのです。
しかし、これは、松姫にとっては元許嫁が兄を殺害したというあまりにも残酷な事実でした。
信忠軍団の支配地は美濃・尾張に加えて甲斐・信濃・上野と東国にも大きく拡大されることになりました。
武田滅亡後も信忠は混乱する武田旧領内で焼き討ちや一揆討伐を進めています。
この後、本能寺の変が勃発することになります。
武田滅亡から僅か数ヶ月後の1582年6月2日未明、織田家家臣の明智光秀が裏切り、備中高松城を包囲する秀吉の援軍に向かうために滞在していた織田信長の宿舎「本能寺」を突如襲ったのでした。
早朝4時30分頃であったと推定されています。
本能寺の変の前夜、信長と信忠は茶会に招いた公卿や僧侶らとともに深夜まで宴を開いていました。
信忠は、少し離れた自分の宿舎である京都・妙覚寺に戻りましたが、光秀の強襲を知ると、信長と合流すべく本能寺に向かいます。
しかし、信長自害の知らせを受け、光秀を迎え撃つべく異母弟の津田源三郎(織田源三郎信房)、側近・斎藤利治、京都所司代・村井貞勝らと共に儲君(皇太子)・誠仁親王の居宅である二条新御所に移動、信忠は誠仁親王を脱出させると、手回りのわずかな軍兵とともに篭城したのです。
京都市中に分宿していた家臣が二条新御所に集まってくれば、ある程度持ちこたえることができ、周辺から援軍が来ることも期待したかもしれません。
しかし明智軍の伊勢貞興が攻め寄せると、善戦むなしく自刃することになります。
介錯は鎌田新介が務め、二条新御所の縁の板を剥がさせて自らの遺骸を隠すように命じたといいます。
父・織田信長も遺体が発見されなかったが、この織田信忠の首も明智光秀の元に届く事はなかったのです。
逃げられたはずなのに戦死したのは、その勇猛さが災いしたようです。享年26。
なお、織田信忠の子・三法師は、本拠地・岐阜城に在城しており難を逃れていましたが、前田玄以、長谷川嘉竹あるいは木下某(小山木下氏)に警護されて、清洲城へと避難した為、のちの清洲会議にて羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が「清洲会議」にて、織田家の後継者として擁立したのでした。
一方、松姫は、信忠を想って何度かあった縁談を断り続けたといわれています。
また、一部の史料では、三法師(秀信)の生母は松姫だとされているものもあるようです。