菊姫 松姫を慕う人々~松姫の物語

松姫を慕う人々


香具姫(香貴姫)(小山田信茂の娘) と松姫

  松姫は武田氏滅亡の時は、兄の仁科盛信の娘・督姫(3歳)、勝頼の娘・貞姫(4歳)と小山田信茂の娘・香貴姫(4歳)の3児と婦女家臣等の20余名で途中幾多の困難を耐え忍んで八王子を目指します。小山田信茂

 それにしても、この中の香具姫(香貴姫)は、最後に武田勝頼を裏切った小山田信茂の娘でした。

 天正10年(1582)勝頼の妹婿にあたる木曽義昌が、新府城築城のため負担増への不満から離反します。
 すぐさま勝頼は、討伐軍を派遣しますが、これに対し義昌の要請に応じて織田・徳川連合軍が武田領内に攻撃をかけ、木曽口から入った織田信忠軍は高遠から諏訪を経て築城したばかりの新府城に今にも迫る勢いとなります。

 しかし、新府城は、大軍を迎え撃つには不十分と判断した勝頼は、戦力を立て直すため真田昌幸が勧める岩櫃城か、小山田信茂の岩殿城に籠城するかを軍議を開きますが、結局、勝頼は信茂の進言を受け入れ、近習と僅かな手兵を従い岩殿城に向かいます。

 然しながら勝頼一行を出迎えるための準備として先行して自領に戻った信茂の迎えの姿もはなく、証人として武田側に置かれていた信茂の母親も姿を消しており、信茂は土壇場で勝頼を見捨てたのでした。

 信茂の裏切りにより逃亡先を失った勝頼一行は天目山方向に転じるものの、既に大将織田信忠の先鋒滝川一益の追討軍は近くまで迫ってきており、ここで勝頼は一族ともども自害するのです。ここに源頼義の三男新羅三郎義光を岩殿城祖とする武田氏は滅亡します。

 なお、その信茂も甲斐が平定された後、嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ、『甲乱記』に拠れば、天正10年3月27日頃、甲斐善光寺で嫡男ほか斬首され一人を除き一族皆殺しとなります。
 残った一人と言うのが、香具姫(又は香貴姫)だったのです。
 
 つまり、香具姫は、武田を滅亡に追いやった張本人の娘というわけで、憎むべき相手とも言えますが、松姫はそんなことなど関係なく、我が子のように一緒に甲斐から逃亡し、養育したと言います。

 しかし、4歳前後だった香具姫も、貞姫同様、徳川家康の配慮によって、陸奥・磐城平7万国の藩主(福島県いわき市平)である内藤忠興に嫁ぎます。

 内藤忠興には正室として家康重臣酒井家次の娘が嫁いでいましたが、嫉妬深い性格で忠興との関係がうまくゆかず、子宝にも恵まれなかったため、離縁して香具姫を妻に迎えたと言われています。
 ここで香具姫は2男1女を生み、跡継・内藤頼長(内藤義泰)を生むのです。

 内藤忠興は藩政に力を注ぎ、新田開発や検地などの農業政策、厳格な税徴収などを行ない、平藩の石高を実質的に2万石も増加させるなど、政治面でも活躍した人物です。

 長男・内藤頼長は1619年生まれといいますから、香具姫41歳の時ですが、父の内藤忠興は28歳ということで13歳も年下の主人だったようです

 頼長は、天和2年(1682)4月1日 朝鮮通信使饗応役を仰せつかり、履歴の中に生母・小山田氏と記してあるそうです。

 香具姫は徳川家綱の時代まで長生きし、1673年8月6日、95歳で亡くなります。

 なお、香具姫が生んだ内藤忠興の娘、要するに孫娘が、武田信玄から続く武田宗家の武田信正に嫁ぎ、1672年には武田信興を生み、武田の血脈を現代に残しています。