松姫を慕う人々
貞姫(武田勝頼の娘)と松姫
貞姫が生まれたのは、おそらく1578年前後かと思われます。
貞姫の母親は、名前が不明なのですが北条家から武田家に嫁いできた姫様のようで、一般的に北条夫人と呼ばれているようです。
松姫は、織田・徳川連合軍から逃れるため、高遠城(長野県伊那市)から新府城(山梨県韮崎市)へ、さらに八王子(東京八王子市)へと逃避行を続けます。
途中、親族の死や武田家滅亡の報に悲しみながらも、兄仁科盛信の遺児・勝五郎と督姫、兄武田勝頼の遺児・貞姫、小山田信茂の遺児・香具姫を連れて八王子に至ります。
しかし、僅か4歳前後だった貞姫は松姫一行が八王子に逃れた同年1582年に、徳川家臣・高力正長は「天正10年に武田勝頼の娘・貞姫を預かる役目を請け負った」と述懐していますから、幼い姫の一人、武田勝頼の娘・貞姫は、八王子に留まるのもつかの間、徳川家康の命により高力家が養育したようです。
大名家での養育ですから、申し分ない環境といえるでしょう。
そして、江戸幕府ができる1603年前後(25歳前後の時)に、徳川家康の配慮により宮原義久の正室として嫁ぎ、1606年、高家宮原家の跡継ぎになる宮原晴克を生んでいます。
宮原家と言えば、清和源氏・足利尊氏の子孫(足利尊氏の4男・鎌倉公方・足利基氏の血筋)と言う名家です。
足利高基の長男晴直が真理谷信濃入道信政の勤めにより上総国宮原に住んだ事で宮原を称した様です。
そのころ宮原義久は、大坂の陣には将軍・徳川秀忠に従い出陣、その後、二条城の守備などを担当するなど徳川秀忠の側臣として、徳川家に仕えていました。
ちなみに「高家」とは、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職。また、この職に就くことのできる家格の旗本(高家旗本)の事です。
宮原義久は、慶長7年(1602)、兄・宮原義照の死去により、高家宮原の家督を相続しています。この時、当主及び嫡子のみが宮原姓を称し、庶子は穴山姓を称することを徳川家康より命じられたとされます。
義久が、高家宮原の家督を相続した同じ年に貞姫と結婚していますので、当主になりしっかりと身を固めよと家康が貞姫を室に迎えさせたのではないでしょうか。
宮原義久は、1630年12月5日死去、54歳でした。
そして、貞姫は夫の死から29年後の1659年6月3日81歳で亡くなったのです。
貞姫が生んだ宮原晴克以後も高家宮原家は明治まで続いています。