松姫を慕う人々
菊姫と松姫
菊姫(きくひめ)は、戦国時代の1558年、武田信玄の5娘として生まれました。
母は側室の油川夫人ですが、同じ母の子としての兄弟は姉妹には、仁科盛信、葛山信貞、松姫がいます。
しかし、菊姫は彼女は生まれながらにして政争の道具となることが義務付けられていました。武田信玄は、自らの子女を同盟に活用することが多く、彼女の姉たちも次々と他家へ嫁いでいます。
実際、菊姫は、甲越(武田・上杉)同盟締結のあかしとして五大老の一人上杉景勝のもとに嫁ぎ正室となります。
なお、「甲陽軍艦」によれば、菊姫は景勝と婚約が成立する以前に、長島一向宗の願証寺の僧と婚約していたとされていますが、1574年に織田信長によって同寺は焼失、僧は行方不明となり婚約は消滅したとされます。
実は、永禄年間(1558~1570)は武田氏と上杉氏の対立が激化していた時期でしたが、信玄の死と長篠合戦での大敗によって武田の凋落が避けがたいものになっていくと、後継者の武田勝頼は宿敵であった上杉氏との同盟をもって勢力を維持しようと考えたのです。
ところが、その時期の上杉氏も謙信の死によって勃発した家督争い(御館の乱)で家中は上杉景勝派と景虎派の真っ二つに割れて政情不安に陥っていました。
そこで景勝は大量の資金と領土を犠牲にし、武田家との縁組を選択して味方につけたのでした。
しかし、もともと同盟関係にあった北条氏政は、上杉景虎支援を武田勝頼に要請していたのです。
しかし、武田勝頼は、景勝方と景虎方の和睦を模索し、一時的に成立しますが、同年8月22日に徳川家康が駿河田中城(静岡県藤枝市)攻めを行うと勝頼は越後を撤兵し、そのさなかに景勝・景虎間の和睦は崩れます。
それにしても、婚約が成立したのは景勝と上杉景虎による御館の乱の最中のことであったため、菊姫との婚儀により武田勝頼の支援を得た景勝は御館の乱に勝利し、上杉家の当主になり、上杉景虎が自害するという結果に終わりました。
この結果に北条氏政は武田勝頼を恨み、同盟関係を破棄します。
そして、その代わりにと言わんばかりに織田信長・徳川家康と同盟し、武田包囲網を形成するに至っています。
そして、武田包囲網の強化により、婚約からわずか3年足らずで、菊姫の実家である武田家が滅んでしまいます。
しかし、実家の後ろ盾を失ってしまった菊姫でしたが、景勝は離縁や冷遇をすることなく正室としての待遇を変えませんでした。
景勝との間に子はできませんでしたが、夫婦仲は悪くはなかったようです。
子ができなければ、当時は、側室を娶るのが通常でしたが、それでも、当初、景勝は側室を娶ることなく、息子が生まれなければ養子をもうけることで家を継がせようと考えていたようです。
また、彼女は直江兼続の正室であるお船の方とも親しくしていたようで、彼女の娘につけられた「松」という名は菊姫の姉妹であった松姫に由来していると言われています。
菊姫は、嫁いだ後は、上杉家中から甲州夫人もしくは甲斐御寮人と呼ばれ、質素倹約を奨励した才色兼備の賢夫人として敬愛されました。
第二代藩主定勝を始めとする後世の歴代藩主たちさえも、謙信時代には争っていた武田家を丁重に扱ったといわれています。
天正10年(1582年)の織田信長による武田征伐で勝頼や盛信らは自害し、実家の甲斐武田氏は滅亡し、菊姫は身寄りの無い身となります。
この時、菊姫の異母弟の武田信清は僧姿に変装し高野山に逃れ、後に、姉の嫁ぐ景勝を頼り越後に来ました。
菊姫は景勝に嘆願し、これに義を重んじる景勝は、妻菊姫の弟で名門武田家の流れをくむ信清を大事な家臣として迎え、3000石の知行を与えました。
その後、上杉家の移封に伴い信清も会津、米沢と移り、会津120万石時代には3300石の高知行を賜り、上杉家家臣として取り立てられて武田勝信を称しました。
米沢藩時代では藩主親族とし高家衆筆頭に遇され1000石を賜りました。
勝信の子孫は明治維新まで続いたのでした。
さて、景勝は豊臣政権で五大老となり、さらに越後から会津120万石へ移される。
政情は豊臣秀吉の死によって大きく変化していき、上杉家は徳川家との対立を決定的なものとしていました。
そして上杉家が属した西軍は関ケ原で大敗し、徳川家康により出羽米沢藩30万石に減移封されている。
さて、菊姫ですが、信長の死後、豊臣秀吉の天下となり、景勝も豊臣政権に臣従したためその証として人質提供を求められ、菊姫は越後春日山城から大坂に移ることになり、後に伏見に移りました。結局、菊姫は会津にも米沢にも赴くことなく伏見で過ごしたのでした。
こうした状況で、国元で景勝が四辻氏を側室として娶ったという話が菊姫にもたらされます。これにより菊姫は唯一の妻という立場を失うことになります。
さらに、四辻氏は、間もなく子を懐妊しました。菊姫は、それを知っていたのか不明ですが、伏見の地で日に日に衰弱していき、慶長9年(1604年)にこの世を去りました。
その死因に関しては諸説あるようです。
『上杉家御年譜』では病に倒れたため、異母弟の信清が看病のため上洛したがその甲斐なく病死したとあり、『上杉家編年文書』では子に恵まれない景勝に側室として迎えられた桂岩院が程なく懐妊したため、嫉妬に狂った果てに自殺したとされています。
【参考文献】
『戦国時代人物事典』歴史群像編集部、学研パブリッシング、2009年。
『直江兼続とお船』鈴木由紀子 幻冬舎、2009年。
『上杉景勝のすべて』 花ヶ前盛明 新人物往来社 1995年