戦国の世に咲いた花一輪 一途な愛を貫いた松姫の物語

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 何ゆえに、男は戦をせねばならないのでしょうか。

 1582年、織田・徳川連合軍の甲州征伐がはじまり、武田家の滅亡の時が迫った来ました。
 しかし、神や仏は心やさしい松姫に何というむごい仕打ちをなさるのでしょうか。
 迫りくる織田軍を指揮しているのは、かつて松姫と婚儀の約定を交わした、そして松姫が一生の人と心に決めた織田信長の息子・信忠だったのです。

 今の松姫には、戦国の世を恨む余裕もありません。
 数人の家臣と幼い子供たちを連れて八王子への逃避行の旅が始まるのでした。
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 松姫(まつひめ)は、戦国時代に活躍した武田信玄の娘であり、その生涯は悲劇と一途な愛に満ちた物語です。彼女は、武田氏の滅亡が迫る中で、恋と家族の絆に揺れ動きながらも、強い心と信念で生きた女性でした。

 松姫は、信玄の愛娘として甲斐の虎と称される武田信玄の元で育ちました。七歳の時に、信玄と織田信長の同盟の一環として、信長の嫡男である信忠との婚約が決まりました。この婚約は、両氏の和睦や同盟の強化を図るための政略結婚でしたが、松姫は幼いながらも一途な愛情を信忠に寄せました。

 しかし、十二歳になった松姫の前に突如として暗雲が立ち込めます。信忠との婚約は、織田信長と武田信玄の対立の激化とともに破棄され、同盟も瓦解してしまいます。松姫は、幼いながらも信忠への深い愛情を抱いており、その破棄は彼女にとって大きな苦痛となりました。幼い心に深い傷を負いながらも、松姫は信忠を想い続けました。
 さらに、松姫の悲劇はその後も続きます。武田氏の滅亡が迫り、戦国の激動が彼女の身近に迫ってきました。信玄の死後、次代の武田家当主である武田勝頼の統治は不安定であり、信玄の偉業を継ぐことは容易ではありませんでした。そして、天正10年(1582年)、織田信長の侵攻によって武田氏は滅亡し、松姫は戦国の波に呑み込まれてしまいます。

 松姫の生涯は、一途な愛と悲劇に満ちたものでした。幼い頃から家族や愛する人たちとの絆を大切にし、自らの信念を貫き通しました。彼女の姿は、戦国の激動の中でも揺るがぬ強さと儚さを併せ持っています。松姫の物語は、歴史の中で輝く一人の女性の姿として、今もなお多くの人々に感動と敬意を与えています。


松姫の物語のご案内(当ウェブサイトの構成)

松姫の生涯

「甲斐の虎」と謳われた名将・武田信玄の愛娘である松姫は、七歳で織田信長の嫡男・信忠と婚約するが、十二歳の時に織田との同盟が破綻。
 婚約も破棄されてしまい、信忠を一途に慕っていた松姫は悲しみに暮れるが、追い打ちをかけるように武田氏の滅亡が迫っていた。
 激動の時代に、一途な恋を貫いた松姫の生涯。

松姫を慕う人々

 松姫は永禄4年(1561年年)9月、躑躅ヶ崎館(信玄の居城)で誕生した。
 父は武田信玄、母は側室の油川ご寮人で四女とも六女とも言われる。
 信玄はそのころ上杉謙信と川中島で合戦中であり、その日の戦いから信玄が帰陣した際、早馬で姫出生の知らせが届いた。
 松姫は、父である武田信玄や異母兄である武田勝頼にもたいそう愛されています。
 また、婚約者である織田信忠との数奇な運命をくりひろげます。
 松姫を取り巻く人々、松姫を慕う人々を紹介します。

松姫ゆかりの地

 東京都八王子市台町に、曹洞宗の金竜山信松院がある。
 この寺は、甲斐(今の山梨県)武田家の旧臣で、そののち、徳川家康の家臣となった、大久保十兵衛長安の尽力によって建てられた尼寺だが、ここに眠るのが武田信玄の娘松姫である。
 松姫ゆかりの地を巡ってみましょう。

松姫を思う

 武田家滅亡により甲斐の国から幼い子どもを連れ八王子に逃れてきた武将の娘「松姫様」。
 その波乱の生涯を「ドラマ化」しようとするプロジェクトがスタートした。
 松姫をめぐる様々なトピックスを紹介します。